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6. 日本のイエネコ

日本に猫が移入したのは、奈良時代。中国から貴重な教典を輸入する際、鼠害から守るために一緒に連れてこられたといわれている。しかし、奈良時代の古典、『古事記』『日本書紀』『万葉集』には、猫に関する記述がまったく見られない。

●宮中で珍重された猫

飼い猫としての猫が、初めて文献に現れたのは、宇多天皇の日記、889年2月6日のくだりである。宇多天皇は、先帝、光孝天皇より唐渡来の黒猫を賜り、5年に亘って大切に育ててきた。この日記には、その経緯と猫の観察が記されている。

また、一条天皇も猫を愛し、宮中で子猫が生まれた時には、人と同じような儀式を行い、五位の位を与え、「命婦のおもと」という名前を付けたということが、『枕草子』『小右記』に記されている。以降、『源氏物語』『更級日記』等に、猫が相次いで登場し、在来の和猫より、珍しい唐猫が貴族階級で珍重されていたことがうかがわれる。

このような愛猫家の記録の陰には猫嫌いの記録もある。藤原清廉は、大の猫嫌い。この清廉は金を持っていながら、ちっとも年貢を納めなかった。そこで、国司の藤原輔公は、猫を使って清廉に迫り、年貢を納めるという証文を取り付けたという。「猫恐の大夫」と題されたこの話は『今昔物語』に載せられている。

●猫股伝説

さて、このように平安時代には珍重されていた猫だが、鎌倉時代に入るとさっそく、怪猫の記述があらわれてくる。これは中国の猫鬼や金花猫の伝承が日本に移入され、日本流に味付けされたものだろうが、ヨーロッパの魔女狩り騒ぎに先んずること250年である。

『明月記』には、一夜にして7、8人を襲ったという大きな猫(野猫)の記述(1233年)があり、『古今著聞集』(1254年)には、飼い猫の唐猫が実は魔物で、秘蔵の守り刀を持って逃げたという話が載っている。『徒然草』(1331年頃)に至ると、山に棲む猫も飼い猫も年をとると化けて猫股となり、人を食うようになるとされた。

以降、猫股の正体について論議されたようだが、
   年老いた、
   黄色か黒色の
   雄猫で
   体が大きく
   尾の先が二股に割れているもの
と結論された。

体の大きさも、時代とともにどんどん大きくなり、『明月記』では犬くらいだったものが、『新著聞集』(1685年)では猪くらいとなり、『寓意草』では9尺5寸(2.88m)にまでエスカレートしている。

猫股の所業は、
   人語を話す
   人に悪夢を見させる
   後ろ足で立って踊る
   火の玉をころがす
   死人を踊らせる
   死人を奪う
   人を食う
   人に化ける
   人を猫に変える
など、バラエティに富んでいる。

猫股伝説の直接的な成因は、中国の金花猫や猫鬼の伝承の移入であろうが、猫の持つ特性そのものがその伝承を裏付けていると考えられ、猫股伝説をさらに発展させた。
   瞳の形が刻々と変わる
   逆撫ですると毛が青光りする
   尾が薄気味悪くうねる
   後足だけで立ち、前足で戯れる
   腐臭に誘われて死人の傍に寄る
   待ち伏せという陰湿な方法で獲物を捕る
これらは、神聖視される要因であると同時に、魔性と忌み嫌われる要素でもあり、それが神話と同時に怪奇伝を生むことは、洋の東西を問わず、日本もまた、その例外ではないのである。

猫股伝説は、平岩米吉著『猫の歴史と奇話』に詳しいので、興味ある方はご参照ください。

この猫股伝承は、日本の猫の形態にも影響を与えている。残存する文献や絵画を見ると、江戸時代中期まで、長尾の猫が多く登場し、好まれていたことがわかる。ところが、江戸時代後期に入ると「猫のしっぽも長いは はやらず」となる。当時発達した浮世絵を見ると、喜多川歌麿のころから俄然短尾の猫が多くなる。猫好きの歌川国芳の『猫飼好五十三疋』や安藤広重の『百猫画譜』に描かれた猫の7割以上が短尾である。長尾を愛でる風潮から抜けて、庶民の間では短尾の猫が好まれたことの現れだと解せる。この大転換の一要因として、長尾の猫は猫股になると恐れられたことがあげられる。猫股になるのを未然に防ごうと、長尾は切り取ってしまうという風習さえ起こった。この風習は昭和初期まで残っていたらしい。
ちなみに、遺伝学的には、短尾は尾の突然変異で、優勢遺伝するという。

●猫の恩返し

恩返しというと、犬を主人公にした忠犬物語が圧倒的に多いが、猫にもないわけではない。長年に亘って大切に育ててくれた飼い主が病気で亡くなると、猫が舌を噛み切って死んだという殉死の伝承もあれば、娘に可愛がられていた猫が、娘を狙った大蛇を食い殺して助けるという忠義の伝承もある。だた、後者は、猫がつねに娘から離れず、厠にもついて行き、その厠で娘に見入っていた大蛇をかみ殺すというもので、これを遊女と猫に置き換えた話が『江戸著聞集』にも載っている。この遊女と猫の話では、猫が遊女、薄雲に見入ったと思った家内の者が、厠についていく猫の首を刎ねたところ、首だけが厠の下に入り込み、そこで薄雲を狙っていた大蛇を食い殺し、薄雲を助けたとされている。薄雲は、誤って殺されながら、なお日頃の寵愛に報いた猫を不憫に思い、猫塚を作ったと云われている。この他、命を賭して大鼠と戦い、主人を守ったという忠義伝承もある。

さらに、病気の恩人にお金を運んだという話が『宮川舎漫筆』に載っている。商家に飼われていた猫と出入りの魚屋の話である。魚屋は、やって来る度に猫に魚を分けてやっていた。その魚屋が病気になり、働けず、貯えもなくなったころ、人知れず二両のお金が置いてあった。そのお陰で健康を回復し、くだんの商家を訪ねたところ、二両のお金がなくなったが、その後、お金をくわえて逃げる猫を見つけ、さては最初の二両も猫の仕業と殺してしまったという。魚屋は、二両のお金に難儀を救われた経緯を話す。主人も魚屋も猫の志しを知り、深く感じ入り、主人は猫がくわえて行こうとしたお金も魚屋に与え、魚屋は猫の死骸をもらい受けて、法名まで付けて手厚く葬ったという。その墓は両国の回向院にある。
 

この他、鍋島の猫騒動も、怨念を猫に託して自害した主人の仇討ち話しであり、人に化け、人を食う猫股伝承というより、報恩談と捉える方が妥当のようだ。
また、報恩談としては、豪徳寺の
招福猫児伝説も名高い。

【参考文献】
『猫の歴史と奇話』
1992年10月1日初版発行
著者:平岩米吉
発行:築地書館株式会社

『世界大百科事典』
1988年4月28日初版発行
発行:平凡社

『日本大百科全書』
1987年11月1日 初版第一刷発行
発行:小学館

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