金森玲奈写真展 訪問

2004年3月23日

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3月21日、写真展の最終日、春うららの気候と写真展への期待に、弾むような足取りで四谷の会場に出掛けた。
こじんまりした会場の白い壁に、さくらちゃんの2年あまりの生きようが写し出されていた。シンプルな黒縁のフレームに収められたモノクロ写真が、淡いライティングに浮き上がる。金森さんが初めて出会った頃から現在に至るまで、時計回りに並べられた作品をゆっくりと眺める。


何の予見もなく見始めたのだが、最初の数枚のさくらちゃんの目の光に射られたような気がして、一瞬後ずさりするような思いだった。
痩せた体、鼻水が長く伸びる顔…だが、両の目は一点の曇りもなく、自分を取り巻く世界、世間をきりりと見据えていた。挑戦的なわけではなく、懐疑的でもなく、妥協も甘えもない、直線的な鋭い視線だった。一切の感情を排して、見えるものを正確に捉えようとする視線…それは、生きるための視線だった。美しかった。

鼻をたらした写真の次ぎの写真には、垂れた鼻水を拭いてくれるやさしい手が写されていた。

さくらちゃんの傍に、人が居る。さくらちゃんは、片手をその人のスニーカーの上に載せている。だが、さくらちゃんは自分の両足で地面を踏み締め、真直ぐ前を見つめていた。

さくらちゃんの傍に人がいる。いや、さくらちゃんは人に抱かれている。だが、さくらちゃんは、身を起こし、両目をしっかり開けて前方を見やっている。

さくらちゃんが、人に抱かれている。さくらちゃんは、体を人に預けて、目を閉じている。閉じた目の裏側には、どんな心象が去来しているのだろうか。

2年の間、さくらちゃんを取り巻く人たちは、同じ距離で接していたように思う。それでも、さくらちゃんとの距離はどんどん縮まってきたように見える。さくらちゃん自らが縮めたのだと思う。その変化は、人との関係だけなのだろうか。人といない時、さくらちゃんはどんな視線で世界を見ているのだろう。幼い頃の、あの強い視線は健在なのだろうか。それとも依存や甘え、妥協や世渡りの術といったフィルターがかかっているのだろうか。

スペースの関係もあり、現在のさくらちゃんが世を見つめる目を写した写真が展示されていなかった。ぜひ見たいと思った。人との距離を縮めても、幼い頃の、何の邪魔も入り込ませない真直ぐな視線で、自分を取り巻く世界を正確に捉えていて欲しいと願った。それほど、幼い頃のさくらちゃんは美しかった。

neco家の猫たちの視線は、愛らしい。でも美しいと思ったことはない。

自分自身のみを頼りに、生きようとする時の視線…それを飼い猫や、保護されている猫に求めるのは無理なのかもしれない。どんなに美しくとも、猫たちにそんな必死、否、必生の視線をさせてはいけないのかもしれない。その視線を持つべきなのは、私たち人間なのだろう。

この写真展を見て、考えさせられた。考えさせてくれた。それほど、インパクトのある写真だった。さくらちゃんだった。

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