チャールズ・ワイゾッキ
1928〜2002





チャールズ・ワイゾッキの…
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チャールズ・ワイゾッキは、1928年、ミシガン州デトロイトで生まれた。父親はポーランドからの移民で、長年フォード自動車に勤めていた。ワイゾッキは、ほんの幼い頃から画家になりたいと望んでいたが、父親はそんな息子の希望に関心を示すことはなかった。ワイゾッキの画家志向を支えたのは、専ら母親だった。

ワイゾッキは工科高校で美術を学んだ後、しばらくデトロイトのアートスタジオで仕事をしていたが、2年間の兵役で西ドイツに渡る。退役後、ロサンゼルス・アートセンターでデザインと広告イラストを修め、1955年、フリーランス・アーティストとしてデトロイトのマクナメラ・ブラザーズに加わる。しかし、西海岸に戻りたいと願ったワイゾッキは、1959年、ロサンゼルスに移り、3名のアーティストと共に、グループ・イーストという広告代理店を立ち上げる。クライスラーやダウ・ケミカルをはじめ、大手のクライアントに恵まれ、会社は順調に成長していった。この間、ワイゾッキのイラストレーションの才能は高く評価され、数々の賞を受賞している。

ワイゾッキに転機をもたらしたのは、妻エリザベスとの結婚だった。エリザベスの家系は、サンフランシスコ・バレーに最初に入った開拓移民で、ワイゾッキは、エリザベスの一族の簡素な農場の暮らし、健全な価値観に魅了される。これが、プリミティブ・スタイルの画家、チャールズ・ワイゾッキのスタートであった。

1960年代前半、商業アーティストとして長者番付に載っていたワイゾッキだったが、次第に商業アートへの関心は薄れ、アメリカーナ=プリミティブ・アートへの思いが取って代わった。夜と週末を使ってアメリカーナ=プリミティブ・アートを描き続け、個展を開催。作品全てに買い手がつくのを見るに至り、商業アートと決別しアメリカーナ・アート一本を描くことを決意する。

1972年にAMCALと契約。以降カレンダーをはじめ、コレクター・プレート、パズル、マグ等々のライセンス・グッズが世に出ることになる。1979年には The Greenwich Workshop を通して初のアート・プリントを出し、1993年までの長期に亘ってこの2社との仕事に没頭する。

しかし、完璧主義者(ワイゾッキの作品を見れば一目瞭然だが)のワイゾッキにとって、一日15時間週6日の仕事は次第にストレスとなり、1993年、仕事先をAMCALのみに絞る。1994〜1999年の5年の間、ワイゾッキはじっくりとキャンバスに向かうようになり、年に4、5点の作品を仕上げていった。猫のシリーズをはじめ、宝とも呼ぶべき素晴らしい作品が生み出されたのはこの時期である。そして、自身のギャラリーをレイク・アローヘッドに開いている。1999年以降、ワイゾッキは半ば引退生活を送りながらも、2002年に他界するまで、絵筆をとり続けた。

ワイゾッキ亡き後も、多くのチャールス・ワイゾッキ・プロダクトが作られ、ワイゾッキを愛する人々の元に届けられている。ワイゾッキは、多くのファンの胸の内に今なお生き続けているのである。