切手に思う(H19.12.24)

今年もたくさんの方から、使用済み切手を送っていただいた。

その中に一際大きな包みがあった。匿名で送られて来たショッピングバッグ一袋分の切手。大雑把にではあるが、切手の四方を5ミリ程度に切り揃えてから日本動物福祉協会に送ろうと、袋から切手を取り出した。机の上に山になった切手は、袋に入っていた時の倍のカサになる。個人でここまで集めるには、相当の歳月を要したことだろう。切手の山からは、ちょっと湿ったカビ臭ささが漂ってくる。私はこの臭いが嫌いではない。幼い頃、本棚に収められた祖父の蔵書をこっそり抜き出して開いた時、じわりとシミ出て来たあの臭い。古い紙が広い所に出て、思わず深呼吸をしたような臭い、長い長い時を感じさせる臭い。

一枚一枚取り上げて、周囲を切り揃え始める。日本のものより、海外の切手が多かった。韓国、中国、シンガポール、マレーシア、タイ……アメリカ、パナマ、メキシコ……イギリス、スペイン、フランス……読めないアラビア文字の国……。現地で買い求めた未使用の切手も混じっている。送り主が仕事で勢力的に飛び回った遠い国々。商談に掛ける期待と、異国に出掛ける不安が、切手から伝わってくる。日本の切手の中には、10銭というものも混じっていた。それは、送り主の半生を物語るようだった。ハサミで切り取ったもの、大きめに手で破り取ったもの……山あり谷ありの人生路のあらゆる地点で封筒から切り離された切手たち。

美しさ故に、思い出故に、大切に取っておいたのだろう。いずれ取り出して、懐かしさと共にゆっくり眺めることもあるだろう、と思ってのことに違いない。私達のだれもが、そうした物を持っている。だが、往々にして、その『いずれ』はやって来ない。この切手たちも、おそらく、切り取られた時を最後に、長い時間しまわれ、そして私の元に届いたのだろう。再び愛でられることはなかったかもしれないが、送り主が切手に封じ込めた思い出の一コマ一コマを手放す決意は、ずしんと私の胸に響いた。一枚一枚の縁に沿ってハサミを走らせながら、私は、その人の半生を追体験しているような感覚を味わい、数時間かかって最後の一枚を切り終えた時には、物悲しくさえあった。何を思い、これらの切手を手放すことにしたのだろう、と思いめぐらせようともしたが、それはとても不謹慎なことに感じられた。

送り主が生きた一つの証のような切手を、動物たちのために送ってくださったことに対する感謝は、思い掛けない重さで、心の奥深くに広がっていった。