コエリちゃんの質問状 (H17.9.2)

このところ、我が家では猫風邪が蔓延している。皮切りはらーちゃんだった。おばあちゃんの隣で寝ていたらーちゃんが、おばあちゃんの顔めがけて、思いっきりくしゃみをしてくれた、という話が出たのは一週間ほど前だろうか。時折くしゃみをしても、普段とかわらずに生活しているのを見て、そのまま放っておいたのが悪かった。らーちゃんにだっこして眠る新入り(もう一年が経つが)に次々と感染していった。まず、レオナがくしゃみを始めた。モナコ、島田チュウ太郎(シマチュウ改め)がそれに続いた。レオナ、島田チュウ太郎は、「あれ、うつっちゃった?」程度だったが、モナコはかなり重症になってしまった。くしゃみの頻度も違うし、鼻水もでる。これはまずい!まず病院からお薬をいただいてきた。掌にすっぽり収まるモナコの小さな頭を押さえ、驚くほどの力で抵抗する手足を握り、二人がかりでやっと抗生物質を飲ませる。だが、初動の遅れは否めず、モナコの体は熱っぽくなり、食欲も減退。丸一日ぐったり眠り続けた。くしゃみはしつこくモナコを苦しめたが、それでもようやくオモチャで遊ぶようになり、一安心。

やれやれ、と寝室に引き上げようとしたとき、ふと見上げた洋服掛けの上に、コエリちゃんの姿を見つけた。そう云えば今日一日、コエリちゃんを見かけなかった。
「あれ、コエリちゃん、こんなところにいたの」
と、鼻先に指を伸ばす。
コエリちゃんは、びっくりして立ち上がったが、その鼻からは鼻水が長く伸び、目は涙で一杯だった。
我が家に来て、一年経つ今も、指一本触らせてくれないコエリちゃんは、唯一ワクチンを打っていなかった。心配はしていたが、快眠、快食、快便の健康優良児だったこともあり、心のどこかで大丈夫と決め込んでいた。その日一日姿を見なかったということは、何も食べていないということ。それに気づいてあげられなかった自分が恥ずかしかった。コエリちゃんに薬を飲ませることはできない。ご飯に混ぜようにも、そのご飯を食べないのでは、どうにもならない。

病院に連れていかなくては!!!コエリちゃんをキャリーに入れて病院へ運ぶのは至難の技だ。今迄も何度となく挑戦し、その都度諦めてきた。だが、今度ばかりは諦めるわけにはいかない。20年近く前、旅行の間預けた知り合いの病院で、猫感染性鼻気管炎に院内感染し、あっけなく逝ってしまった2匹の猫の姿が目に浮かんだ。

翌朝の私の覚悟は違っていた。怯みもしなければ、決して諦めもしない!
コエリちゃんは押入に隠れていた。部屋を締め切り退路を断つ。それからゆっくりと押入の隅に追い詰め、それっ!一瞬捕まえても、猛烈な勢いで跳ねるように逃げられる。それっ!コエリちゃんのがむしゃらに蹴り出した後足の爪が、私の腕に直線や円弧を次々に描き、血がしたたる。上へ下へ逃げ惑うグレーの野生動物を、私は執拗に追い続けた。キャリーは蓋を開けたまま室内に置いてあるが、間違ってもそこに逃げ込むことはなかった。病状を思うと早く決着をつけなければならない。武器になりそうなものは………あった、バスタオル!再び押入に入ったコエリちゃんの背後から、バスタオルをばっさりかぶせ、そのまま体を押さえる。コエリちゃんは麻酔でもかけられたように動かない。そのまま、慌てずゆっくり持ち上げ、バスタオルごとキャリーに入れて、瞬時に蓋を閉めた。気が抜けるほど、簡単な結末だった。

病院へ向かう車の中、コエリちゃんは一声もなかず、覗き込む私の目を射るような視線で睨み続けた。コエリちゃんが私の足に擦り寄ってくれる日は、これでまた、はるか彼方に遠のいた。それでも、病院に連れていけることが嬉しかった。

診察室に入る。先生がキャリー越しにコエリちゃんを観察する。一瞬の隙も見せないその姿に、先生はキャリーから出すことはできないと判断。洗濯ネットに入れなければ診察も治療も不可能なのだ。キャリーは中型犬用で、巨大なネットがなければ移し変えることはできない。
どうしよう……せっかく病院まで辿り着いたのに……
「コエリちゃん……」
途方に暮れ、キャリーに顔を寄せて声を掛けた私に、コエリちゃんは、「ハーッ」と威嚇の声を返し、爪をむき出しにした手を繰り出した。その手はキャリーの内壁に阻まれたが、この反応で、先生の判断が正しいことを再認識させられた。

取り敢えず、一旦帰宅。巨大洗濯ネットを探さなければならない。ホームセンターにもスーパーマーケットにもない。特大サイズはすでに購入済みで、これでは役に立たないのだ。巨大ネット、巨大ネット………あっ、ある!会社の外猫がお世話になっている病院ならある!というわけで、コエリちゃんを再び車に乗せ、その病院に向った。

コエリちゃんの熱は高かった。40.6℃。一つ屋根の下に暮しながら、そんな状態をだれにも気づいてもらえないまま丸一日を過ごし、今日は今日で大捕り物を繰り広げ、さらに車で病院のはしご。一年経っても、人間にちっとも気を許そうとしないコエリちゃんを見て、家に連れて来たことが本当に良かったのかどうか、答えを出せずにいただけに、そばに居ながら、こんな思いをさせた自分が許せなかった。ケージの奥のコエリちゃんの目は、まっすぐ私を見つめる。冷たい視線だった。

一夜明け、なまりと缶詰を持ってお見舞いに出かけた。目から涙は消え、シャープな光を放っている。私の顔を認めても、そのきつい光は和らぐことはない。当然だ。ご飯も一向に食べないという。これも予想通り。コアネちゃん同様、向こう3日は食べないだろう。
看護士さんが、ケージを開けてくださった。でも、私は手を伸ばすことさえできない。外猫のコアネちゃんの背はさすれても、コアネちゃんには触れることができないのだ。この関係が改めて不思議に思えた。
コアネちゃんは、この同じケージで、毎日見舞う私の手に頭を擦り付けてきた。入院4日目のことだった。それまでまったく食べなかったコアネちゃんが、その晩からご飯を食べ始めた。コエリちゃんにも同じことが起こるだろうか。淡い淡い期待が胸をかすめるが、それは間違いだと気づく。
コエリちゃんは、きっとこう言いたいに違いない。
「私には、自分で食べ物を探すこともできなければ、病んだ体を自分で癒す場所を探すこともできない。どんなに抵抗しても、所詮私はあなたの決めた枠を出ることはできないの。私の命はあなたの手の中にあるの。あなた、私の命をその両の手にしっかり受け止めてくれている?私だけじゃない、あなたと暮す13匹の猫の命を一つずつ、ちゃんと受け止めてくれている?私たち、13分の1じゃないの。みんな一つずつの、たった一つずつの大切な命なの」

決して距離を縮めようとしないコエリちゃんに、私は猫なで声で取り入ろうとばかりしてきたが、コエリちゃんが求めていたのはそんなものではなかったのかもしれない。

「私は、あなたの自由を奪ったことをちゃんと知っている。あなたの命を、あなたの手から奪ったことを知っている。そして、あなたが、『なぜ?』と私に問い続けていることも。その『なぜ?』に、私、答えられていないのよね。その答えを、あなたが自分で見つけられるような、そんな私にきっとなる。その日までの私を……許して……」

コエリちゃんと私の距離を縮めるのは、私の有り様なのだろう。それを評価するのは、コエリちゃんであり、コエリちゃんが保つ距離が、私の成績表なのだ。これ迄とても居心地が悪く、恨みがましくさえ思えていたお互いの距離が、何故か、神聖なものに感じられた。それは、認め合い、信じ合うことでしか縮めることができないのだから。