こえりちゃんの家(H17.9.11)

こえりちゃんが、退院した。
一週間の入院の間、結局何も口にせず、体調は万全とは言えないまでも、家に帰った方が食べるようになるだろう、との先生の判断だった。

入院中、お見舞いに行ったが、こえりちゃんは、ケージの中に置いたキャリーから姿を見せなかった。隙間からこちらを伺う目は、精気がなく、片目は半分しか開いていなかった。心細かったろうに、背中一つ撫でてあげることもできず、こえりちゃんと自分の関係は一体何なのか、改めて問われているようだった。

家に帰れば食欲も出るだろう。だが、こえりちゃんにとって、neco家は家なのだろうか。

逃げ惑うこえりちゃんをネットで捕まえたとき、一緒に逃げていたズレータは、そのまま逃げ切り、事務所の外猫として元気に暮している。ズレータには、身を寄せ合う3匹の家族がいて、『ご飯のおばちゃん』や『ご飯のおじちゃん』がいる。『ご飯のおばちゃん』は、去勢だ、ワクチンだと、病院にも連れていく。ゴミが素材とは云え、ぐっすり寝入ることのできる安全なベッドもあれば、窮屈ながら雨露をしのぐ場所もある。そして何より、自由がある。
あの時、不覚にも捕まってしまったこえりちゃんには、一体何があるのだろう。12匹の仲間とエアコンが効きすぎる部屋、そして山盛りに盛られたご飯皿。悪くはない。仲間の数もズレータより多いし、ベッドもズレータよりは上等だ。屋根もあれば、エアコンもある。ご飯だって、要求すれば、いつでも出てくる。だが、ズレータが待ちわびる『ご飯のおばちゃん』は、こえりちゃんにとっては逃げなければならないほど恐ろしい存在だ。一瞬たりとも気を許すことのできない人間たちが、24時間、同じ屋根の下にいる。そして思いっきり逃げようにも、壁の向こうに出ることすらできない。こえりちゃんに HOUSE はあっても、ほっと寛げるHOME はないのだ。

猫たちの自由と引き換えに、私は安全を約束したつもりだった。だが、私はこえりちゃんの健康を守ることができなかった。こえりちゃんは、ズレータと一緒に事務所の外猫として暮した方が幸せだったのではないだろうか。病気になる前から頭を離れなかった疑問が、大きく確信に近づき、涙がこぼれた。

家に連れ帰っても、こえりちゃんはご飯を食べないような気がした。大捕り物の末、病院のケージに閉じ込めた私への恨みで、こえりちゃんはどこか人目につかない場所に引き蘢ってしまうに違いない。こんなに弱ったこえりちゃんにとって、それは致命傷となるだろう。かと云って、このまま病院のケージの中で過ごさせるわけにもいかない。治療のお蔭で熱こそ下がったものの、体調が回復してきているようには見えないのだ。悪い筋書きばかりが堂々巡りする。

家でご飯を食べてくれるかどうかは、私への審判のような気がした。

病院に運んだ時よりも、ずっと重苦しい気持ちを引きづりながら、こえりちゃんと一緒に家路につく。途中、こえりちゃんは、一声も発しなかった。

家に着き、キャリーを開ける。身を固くしたこえりちゃんは、キャリーから出ようとしない。外の臭い、あるいは病院の臭いに興味を持ったトンちゃんや宮沢さんが、代わる代わるにキャリーの隅のこえりちゃんに鼻を近づける。キャリーが大好きなぬーちゃんは、こえりちゃんがいるのもおかまいなしに、巨大な体をキャリーに押し込んでしまった。慌ててぬーちゃんを引きずり出すと、こえりちゃんがバネのように飛出してきた。そのままウッドデッキに直行。私は、ご飯を用意してウッドデッキに置き、その場を離れた。居間から、そっとウッドデッキを覗く。こえりちゃんは、周囲を警戒するように見回すと、まっすぐご飯皿に近づき、食べ始めた。食べている。一週間何も食べなかったこえりちゃんが、今、家で、迷わず、ご飯を食べている。
嬉しくて、それまでの気疲れがすっ飛んだ、と言いたいところだが、安堵のため息が緊張をほぐしたのか、体の力が抜け、へたへたと座り込んでしまった。

こえりちゃんの鳴き声が聞こえる。聞き覚えのある声、発情期の到来を知らせる、甘えた、媚を売るような声だ。まさか?!再びウッドデッキを覗くと、宮沢さんににじり寄り、身をくねらせるこえりちゃんが見えた。だが、宮沢さんも、他の雄猫も、全くの無関心だ。いつもなら、首をかじってみたりはするのだが、今回は、奇妙なものでも見たように、そそくさと逃げてくる。発情期でも何でもいい。このまま、隅に隠れることなく、他の猫たちと一緒にいてくれるなら、それでいい。

しばらくして、隣の部屋を覗くと、洗濯をしてベッドの上に放り出してあったロッキーママのベッドにちゃっかり入ったこえりちゃんがいた。私が近づくと、さっと逃げていった。

翌日、こえりちゃんのあの鳴き声は聞こえなかった。発情期ではなかったのだ。恋しかった仲間に再び会えた喜びなのか、あるいは「私を仲間はずれにしないで」という思いを伝えたかったのか、いずれにしても、あの声でこえりちゃんは一週間の不在の穴を埋めた。

私はこえりちゃんの家族でも『ご飯のおばちゃん』でもないが、たくさんの仲間が暮すこの家は、間違いなくこえりちゃんの HOME だった。