人と猫(H.22.1.23)

『猫三昧』を最後に更新した10月11日が、遠い遠い昔の、子どもの頃の想い出のような気がします。
確かに子どもだったのです。アラカンの子ども……
私の56年の半生の殆どを共に暮らした母を亡くして一カ月、今ようやく人として、子の親として独り立ちしようとしています。

母を看取ることは、私の人生の最大の役割だと、随分前から心していました。
猫たちをたくさん見送りながら いつの間にか芽生えた死生観は、いずれ必ずやって来る母との別れを支えてくれるだろう……そうも思っていました。
確かに私は、よろめくこともなく、しっかりと両脚で立ち、その時を受け止めました。
ただ、それを支えたのは、死生観というようなものではありませんでした。
一人っ子として、あらゆる事柄に忙殺されたこともありました。
でもその根底には、微妙な心理が働いていたように思います。
涙もこぼれなかった。

猫と違って、人は多かれ少なかれ業を背負っています。
その業が自然な心の流れを曲げ、小さくともかなり深い澱みを作るのではないでしょうか。
母は、大切な大切な人でしたが、大好きだったか、と聞かれたら、返答に窮したことでしょう。
大切だったから、できることは何でもしたいと思ったし、その8割がたはやってこられたと思うのですが、素直な「好き」という感情が湧かないことに後ろめたさを覚えていました。

ところが一月が経った今、日ごとにわだかまりが洗い流されていくような思い掛けない感覚に、ただただ驚いています。
慣れない台所に立ち、危なげに料理をしながら、母が私たち家族の「美味しい!」という声と満足の笑みの為に精を出す姿を自分に重ね、母の心情を自分の中に感じ取る……そんな瞬間の連続の中で、母と私を隔てていた、どうしようもない膜が融けていくようなのです。
人は、人のことを思い、人のために自分を動かすことができる……それが何にもまして尊いことに、今更ながら気づかされました。
それこそが、人が『人』たる由縁なのかもしれません。

私は日頃から、他者に迎合することなく自分の思いに忠実に、置かれた環境の中で精一杯生き抜き、潔く命を終える猫に比して、人はいかに脆弱で、未練がましく、自分の真に欲することさえ見えない愚かな存在かと、情けない思いを抱えていました。この忌むべき人間像は、私自身の投影だったのでしょうが、総じて私は人が好きではありませんでした。
翻って、猫たちの神々しいまでの最期を看取るとき、感動にも似た思いで無心に手を合わせました。
冷たくなる体を撫でながら、「大好き、大好き、これからもずっと大好き」と口にすると、涙がとめどもなく溢れ続けました。
そして私と共に時を刻んでくれたことに、心から感謝をしました。

今、私は涙することなく、母に感謝しています。
母には生前から感謝の気持ちで一杯でした。
母の私に対する思い、母が純粋に私を思い、費やしたすべてには、いくら感謝しても足りません。
ただ、母の思いが、今は私の中に入り込み、私の感情として甦ってくるようなのです。
「ありがとね」
何のてらいもなく、言えるようになりました。
私ばかりではありません。
母は、どんな時も自分の前に人を思い、人のために骨身を惜しまない人でした。
猫の持ち得ない、人の尊さを具現した『人』でした。
今になって、初めて母が眩しく見えます。
『人』としての光が、人の持つ業の闇まで明るく照らしているようです。

七七日忌までの49日間、母は仏になるための修行をしているようです。
私もまた、これからの時間を『人』として生きられるよう、修行に励みたいと思います。
私が『人』に近付くことができれば、きっと私は人が好きになるのでしょう。
「母が大好き」と、迷いなく言える日も来るのかもしれません。
涙はその時まで、とっておくことにします。