最期の寝床(H21.6.7)

死期を悟った猫たちは、それまで共に暮らした家族と家から去っていく。
我が家の猫たちも、室内飼いの今でこそ最期を看取ることができるが、自由に外を行き来していた頃は、人知れず去っていったものだ。
心安らかに最期の時を迎えることのできる場所……それはどのような処なのだろう。

ある時、知人がこう言った。
うちの庭には、死にに来る猫が絶えないと。
憔悴しきって、庭木の根元で動かずにいる見知らぬ猫を抱きかかえて、病院に通うのだそうだが、薬石功なく看取ることになるのだと。
その人の家に猫はいない。
どうして猫たちは、その庭を最期の場所に選ぶのだろう。
その人は、なぜ、見ず知らずの猫たちに、そこまでできるのだろう。
我が家には、生きるためにやって来る猫はいても、死にに来る猫はいなかった。

つい先日、早朝に玄関ドアを開けると、大きなネズミがよたよたと五歩ほど移動して、うずくまった。
度肝を抜かれないはずはない光景なのだが、不思議とそのネズミに見入ってしまった。
立派な体躯で、頭に白いぶち、30cmほどの長い尻尾にはいくつかの古傷の痕がある。
往年は百戦錬磨の強者だったに違いない。
そしてこのネズミの今生の時間は、ほとんど残されていないことも見て取れた。
庭の草木の手入れを済ませ、玄関先を見ると、ネズミはまた数歩移動して、ロッキーママの特別室だった大型キャリーの入口に掛けてあるカーテンの下でじっとしていた。
猫の匂いが染み付いているだろうに、意にも介さぬ様子。
玄関ドアの向こうでは、私を呼ぶトンちゃんが大きな声で鳴き続けているが、それもお構い無しだ。
そもそも、家の中に閉じ込められているとは云え、11匹もの猫が暮らす家の玄関先に来ること自体が不可解だった。

洗濯物を干しながら、2階のベランダから下を覗くと、ネズミは玄関ドアの真ん前で、顔を玄関に向けて座っている。
その姿は、神々しくさえあり、何者かの使者のように見えた。
出勤時間、ドアを小さく開けると、まるで道を開けてくれたように、数歩ゆっくりと移動した。
ネズミの脇を通り、振り返った。
言葉にならない私の思いはネズミに伝わっただろうか。

その夜、帰宅した時に、ネズミの姿はなかった。
正直ほっとした。
だが、翌朝、玄関先のタイルのすぐ下にネズミの亡骸を見つけ、喉のつかえが取れたような気がした。
天寿を全うしたネズミの立派な姿だった。
家の裏手にぎっしり繁茂したドクダミを抜いて穴を掘った。
来世に旅立ったネズミを横たえた。
人に忌み嫌われるネズミだが、もう一度命が与えられるなら、きっとこのネズミは再びネズミとして生まれてきたいのだろうと思った。
土を掛け終えて立ち上がると、お清めの塩を持ったお父さんが後ろにいた。
ビオラ、バーベナ、ペチュニア……プランターの花を切って、俄作りのネズミの墓に供えた。
我が家を最期の寝床に選んでくれた最初の命に、感謝した。