らーちゃんに寄せて(H21.3.15)

らーちゃんの写真がようやくフレームに収まった。
一足先に天国での暮しを始めた猫たちの写真は、2階のテーブルの上にずらりと並んでいるのだが、らーちゃんの額をその列に加えるには、少し時間がかかりそうだ。
今は、居間のテーブルの上。
らーちゃんの穏やかな眼差しと出会う度に、口元に微笑みが浮かぶ。

らーちゃんの写真を探すのは一苦労だった。山ほどある写真のどれもこれも、誰かを抱いていて、らーちゃん一匹で撮れているものはほとんどなかったのだ。らーちゃんは、それほど、後から来た猫たちに慕われていた。

ファイト、マロン、ロッキーママ、そしてママの子供の6匹兄弟の中に、一人成猫でやって来たらーちゃんは、半年の間、石のように身を固くして過ごした。
トイレに入ろうとすると、トイレの前に6匹兄弟の数匹が陣取って通せんぼする。
2階へ行こうとすれば、階段の前にバリケードができる。
6匹兄弟のそれぞれは、人なつこい愛すべきキャラクターなのだが、らーちゃんに対しては、実に陰湿だった。
らーちゃんの姿形は、亡きロッキーの生き写しで、どこからどう見てもロッキー家、つまり6匹兄弟の血縁だ。だが、そんなことは6匹兄弟には何の意味もないらしかった。
すれ違い様に情け容赦なく猫パンチを繰り出し、らーちゃんは高円寺で野良をやっていた時より、はるかに生傷が増えた。
どんな仕打ちをされようと、身をさらに縮めるだけで、決して逆襲しようとしなかったらーちゃんは、6匹にとっては格好の標的だった。らーちゃんの芯(真)の強さなど、知るよしもなかった。

らーちゃんを石のような状態から解放したのは、チビタだった。
片目を失い、顎もひしゃげたチビタは、らーちゃんに遅れること、半年ほどでneco家の家族になった。おそらく交通事故にでも遭ったのだろう、傷こそ癒えているものの、脳にも後遺症が残っているらしく、毎晩、8の字歩行を繰り返しては、遠吠えのような声で鳴き通した。
らーちゃんには、辛辣ないやがらせをする6匹兄弟は、チビタには逆に怯えた。
一人では食べることさえできないチビタを、らーちゃんは母親のように、日がな一日抱いていた。
らーちゃんの体に、次第に柔らかさが戻っていった。らーちゃんは、チビタを通して自分の存在の実感と自信を取り戻すことができたのだ。

さらに遅れてやって来た、4匹の仔猫は、人間嫌いの猫好きで、先住猫たちとの折り合いは良かったが、4匹が4匹とも添い寝をするのは、らーちゃんだった。
らーちゃんが、とりわけ面倒見が良いというわけではない。自分から誰かに寄っていくことは皆無。それなのに、チビタも4匹もらーちゃんに吸い寄せられるようだった。

らーちゃんは、ロッキーママがロッキーの前に産んだ子供の一匹……何となく、そう思っていた。らーちゃんの本名、『ラッキー』は、『ロッキー』のお兄ちゃんだから、ということで名付けたもの。ところが4、5年前から多飲多尿が目立つようになった。当時の推定年齢は7、8歳だったが、どうやらさらに7、8歳は上乗せしなければならないらしい。だとしたら、ロッキーの兄弟ではなく、ロッキーママの兄弟かも、などと真剣に考えるようになった。

らーちゃんは、ある日突然、事務所のベランダに上ってきた。当時、事務所にはキャットフードの買い置きはなく、冷蔵庫にあった一かけのチョコレートで事務所の中におびき寄せ、その日の夜には、neco家の住人となった。
ベランダに来たのは、後にも先にもその一回だけだった。

薄汚れた緑の首輪をした茶白の猫の姿は、それまで幾度となく見かけていた。ある時は、銀行脇に乱雑に置かれた自転車のタイヤに、何喰わぬ顔をしてオシッコをかけていた。また、ある時は、居酒屋と医院に挟まれた路地を入ったところにある空き地で昼寝をしていた。
私の姿を見て、逃げるわけではなかったが、近寄るとその分だけ後ずさりし、必ず1mの距離は保っていたものだ。その時は、『ロッキーのお兄ちゃん』と呼びかけていた。

首輪をしていたが、もう戻る家はないのだろうと認めるのが辛くて、外で出会うたびに、首輪をしているのだから、と自分に言い聞かせた。ところが、ベランダから事務所に足を踏み入れたその途端に、一転、この茶白は野良暮らしと決め込んだ。

らーちゃんは、おそらく家のない猫として生まれついたのだろう。ロッキーママの兄弟であれ、子供であれ、家はないのだから。真新しい緑の首輪を付けてくれた人が、らーちゃんに最初の家を与えてくれた。そこで、どれほどの時間をどのように過ごしてきたのだろう。だが、どんな事情からか、らーちゃんは、再び家のない猫になった。高円寺には、餌をくれる人は多い。満足はできなくても、日々命の危機に曝されている、というわけでもなかったろう。反面、家無し猫も多いから、幾度となく争いにも巻き込まれたに違いない。切れ目の入った右耳は、家無し猫の勲章か、はたまた消してしまいたい敗北の痕か。
もしかしたら、仔猫をもうけたかもしれない。今朝、神社の駐車場で食後の身繕いをしていた茶白は、らーちゃんの子供かもしれない。
……らーちゃんには、私の知らない時間がたくさん流れた。その長さは、らーちゃんしか知らない。

一昨年の5月、突然、らーちゃんの尿が血に染まった。まるで鮮血を撒いたような状態だった。
夜間救急のドクターカーを呼んで、応急処置をしていただいた。急性の膀胱炎だったが、腎機能の検査をするように言われた。翌日、病院で検査を受けると、腎臓の機能はかなり悪化していて、もってもその年一杯、と命の期限が切られた。

らーちゃんは、腎臓の病院食を頑に拒否した。療法食を食べても、腎臓の時計の進みを少し遅らせるだけ。時計を逆回しにすることができないのだったら、好きなものを好きなだけ食べればいい……そう思った。ただ、老廃物を吸着する為の活性炭だけは、毎朝毎晩、水に溶かして飲ませることにした。

らーちゃんは、昼も夜もだれかを胸に抱いて眠り、時折ニセドとトンちゃんの猫パンチを喰らい、100回に1度は抗議の唸り声を上げ、空気を読めずに人のご飯皿に鼻を突っ込み、その年の暮れを迎えた。年末、悪性の風邪にかかり、毎日、病院へ輸液に通ったが、何とか越年。1月半ばには、全快して病院とも縁が切れた。

7月、誰と誰がどんな経緯で始めたケンカなのか判らないが、トンちゃん、宮沢さん、らーちゃんが深手を負い、次々に縫合するハメになった。その時、らーちゃんは腎機能の検査も受けたが、結果は当然のことながら、さらに悪化、重篤な状態だという。週一回、輸液に通うことになった。延命を望んでのことではなかった。輸液をすることで、少しでも快適に残された時間を過ごせるなら、という一心だった。この時機に、病院へ行くようなケガをしたのも、一つの縁と思った。

週に一度の病院通いが続く。そう言えば、らーちゃんは、ワクチン接種に出掛ける度に、オシッコをもらしたっけ。それも必ず帰りに。怖がるらーちゃんを洗濯ネットに入れて抱いていたから、私のズボンがペットシーツ代わりだった。今、キャリーの中から、めったに見せることのない好奇心の固まりのような目で、流れる景色を追うらーちゃんを横目で見ながら、数年前を思い出していた。

8月末、再びケンカが勃発。らーちゃんは、左耳の外耳に傷を負ったらしく、化膿して膿みが耳から溢れてきた。折悪しく病院は遅い夏休みで休診中だ。余程痛いのだろう、らーちゃんは、まったく食べなくなってしまった。水も飲もうとしない。見る見る脇腹は凹んでいき、皮毛はパサつき、足取りさえ覚束なく感じる。手元の強制給餌用の病院食をお湯で溶いて、注射器で流し込むことにした。
さすがに夏休みが明けるまで待つことができず、休診中の先生に泣きついた。らーちゃんの傷は、相当な痛みだという。膿みがきれいになるまで、何度も何度も脱脂綿を取り替えてぬぐい、抗生剤の軟膏を塗る。そして抗生剤の注射。だが、もっと深刻なのは、脱水だった。この日から毎日治療と輸液に通うこと2週間。傷も癒え、脱水症状も快復したが、食欲だけは戻らなかった。

嫌がるらーちゃんを押さえつけるように、注射器で病院食を流し込む。一日缶詰一缶がノルマだ。お湯で溶かしながら、あまりの多さに、こちらがぞっとする程だが、心を鬼にして固く結ばれた口をねじ開けて食べさせる。私の手の甲には、らーちゃんの爪が突き刺さり、血が流れる。その痛みがむしろ私には救いだった。
強制給餌は、延命以外の何ものでもないのだろう。私は、延命させたかったわけではない。だが、らーちゃんの命の糸は私の手に握らされてしまったのだ。どうして、私にそのか細い糸を切るようなことができよう。嫌がるとは云え、強制給餌で、らーちゃんが苦しんだり、具合が悪くなったりするわけではない。確かに、強引に流し込まれる食事は嬉しくはないだろう。でも、一時の我慢で済むのなら、ごめんね、ちょっとだけ我慢して。
何とか食べ終えると、らーちゃんは隣の部屋へそそくさと逃げ込んで、身繕いを始める。私は、熱々のおしぼりを作って、らーちゃんの元に駆け戻る。ふうふうとおしぼりを冷まして、顔と体を拭く。せめてもの罪滅ぼしだ。らーちゃんは、これがお気に入りで、ごろごろと喉を鳴らしてくれた。

それでも、らーちゃんはちゃんと知っていた。命がもう切れることを。注射器がなければ、自然のままにしてくれていたら、すぐそこに最期があることを。
らーちゃんは、玄関の閉じた扉の前に正座して泣く。
ウッドデッキのラティスの穴に顔を突っ込んで、鳴く。泣く。
お風呂場のわずかに開いている窓に鼻先をこじ入れて、鳴く。泣く。哭く。
最期の旅に出してくれと訴えているのだ。
Neco家にやって来て、どんなに6匹にいじめられようと、一度として外に出たいと言ったことはなかったらーちゃんが、来る日も来る日も、外に向かって尾を引くような切ない泣き声をあげる。
出入り自由な身であったら、注射器を持った私の手からさっさと逃れて、心身共に安らげる場所を探し当て、そっと体を横たえて、静かに目をつむっているだろうに。
それが判っていながら、判っているからこそ、ドアを開けることはできなかった。
毎日聞こえてくる泣き声は、らーちゃんから私へのたった一つの、たった一度のお願いだった。
でも、応えてあげることはできなかった。
何が正しいのか、どうするべきなのか、考えることも、考えようともしなかった。

週に一回病院へ通い、毎日一缶の病院食と活性炭を体に流し込み、昼間は誰かを抱いてまどろみ、夜は私の腕の中で眠り、秋は更けていった。

12月に入ったころから、一缶の缶詰が食べ切れなくなってきた。強制的に食べさせているとは言っても、やはり相手あること、無理は無理と肌で判る。一缶が4分の3缶になり、3分の2缶になった。
ぎりぎり4キロを保っていた体重は、一週間に200グラムずつ減っていった。
これまで駆け上がっていた階段も、一段一段、足を揃えながら、やっとこ上るようになった。
12月30日、年内最後の輸液に出掛けた。注射の前に聴診器を当てた先生は、静かに言った。
「覚悟はしておいてくださいね」
覚悟はとうにできていた。
家に戻ると、いつものように、ゆっくり2階へ上がって行ったが、これが最後の2階となった。

大晦日、一人暮らしをしている息子が戻って来た。2年振りに家族が揃った。
らーちゃんは、もはや外に出してくれ、と泣くことはなかった。らーちゃんが好んで行く場所は、なんとキッチンの流しの中だった。水滴のついたままの冷たいシンクに座り込み、遠吠えのような声でひとしきり鳴く。まるで、宇宙と交信しているかのようだ。ステンレスの無機質な空間に身を置くらーちゃんは、もう手が届かないほど遠くに感じられた。交信を終えるとシンクから飛び下り、家族が集まる居間の、ホットカーペットの上で身を横たえた。

注射器での強制給餌の量はますます少なくなり、足取りも覚束なくなった。
それでも、一日に何度となくシンクに飛び乗り、宇宙交信を続ける。
正月二日には、飛び損なうようになったが、諦めずに跳び直し、交信を怠ることはなかった。
三日、もう食事は入らなかった。水を口に含ませるのが精一杯だった。
二歩歩いては、倒れるようになった。
その度に、たくさんの手がらーちゃんに伸びたが、らーちゃんは自力で起き上がった。
そして、また二歩歩き、倒れた。

そんな足でありながら、シンクには上って行った。キッチンに向かうらーちゃんを、私か息子が追い掛けた。だが、私たちの手助けはいらなかった。見事な跳躍だった。
交信の声は、低く、小さくなったが、それで十分交信ができるほど、らーちゃんは宇宙に近付いているのだろう。
トイレにも自力で入り、わずかなオシッコとウンチを済ませた。
家族揃っての三ヶ日が終わった。
寝しなに、らーちゃんの口に水を含ませ、おやすみを言った。
おはよう、と声を掛けることはもうないことを知っていた。

その晩、いつものようにおばあちゃんと一つ枕で眠ったらーちゃんは、4日の訪れを合図に起き出し、一人宇宙へ旅立った。

翌朝、私が階下へ下りた時には、もう、らーちゃんは箱の中に収まっていた。
枕元でお線香の煙がくゆっていた。
おばあちゃんと目で語り合った。言葉はいらなかった。
あっぱれな最期だった。
哀しみでもない、喪失感でもない、感傷でもない涙が、頬を伝った。
それは感動にも似た思いだった。

家族揃ったお正月休みの最後の日を、淡い彩りの花に囲まれたらーちゃんと共に過ごした。
私は、らーちゃんの注射器を宝箱の中にしまった。

仕事始めと同時に、その日やり残した仕事が日々積み上がっていく。そんな慌ただしさ中で、半端にらーちゃんを思うのは嫌だった。
手の甲に残るらーちゃんの爪痕が、無情にもどんどん薄れていく。
私に残されたらーちゃんとの繋がりが断たれるようで、哀しかった。
すっかり消えてしまうまでに、じっくりと、思いのたけ、らーちゃんを偲びたかったが、それも叶いそうもなかった。

らーちゃんの面影をわざと頭から閉め出していたわけではないが、不思議なほど、らーちゃんを思うことはなかった。
ただ、これまでと同じ5時に起きると、朝の用事を全て済ませても時間が余る。らーちゃんに朝ご飯を食べさせることがなくなったのだ。持て余した時間が切なかった。

あれから二月が経ち、ようやくらーちゃんの写真を額に収めることができた。
寄り添う相手を失った4匹は、所在なさそうに、うろうろしている。
らーちゃんは、今頃、再会したチビタを抱いているのだろうか。