『ロッキーふんふん教』の入り口 (H14.1.4)

 ロッキーが亡くなって、ぱぱちゃんは『ロッキーふんふん教』の縁起と教典を著した。(ロッキーの『ふんふん』については、拙著『ロッキーの陽だまり』を参照ください。)ロッキーの『ふんふん』が持つ、全てを丸ごと抱きかかえてくれる、ぬくぬくした懐のような不思議な力を少しでも持ちたいと、Neco家ではロッキーの命日に全員揃って『ふんふん』を唱和する。ロッキーの『ふんふん』に抱かれていたNeco家の面々は、『ふんふん』の何たるかを感覚としてわかっているのだが、『ふんふん』と唱和しても、『ふんふん』の奥義には到底近付けないどころか、奥義に続く道すら見えずにいた。
 ロッキーの6匹の弟妹たちは、それぞれにロッキーの一部を受け継いでいたが、6匹合わせてもロッキーにはならない。その6匹の中で一番ロッキーに似ていると、ぱぱちゃんが首っ丈なのが『トンちゃん』だ。分からないでもないが、「そうそう、そうよね」と頷けもせずにいた。6匹はいずれも個性豊かで、兄妹でありながらこうも違うかと感心する一方で、実に良く似てもいる。その中で、『トンちゃん』の可愛さは確かに異質だった。どの子も甘えん坊のガキ大将&女王様。どの子も独特の可愛さの『色』を持っている。だが、『トンちゃん』の可愛さには色がないのだ。無色透明な甘えん坊なのだ。その色のなさが他の子と大きく違っていた。
 猫だって人(?)を羨むし、焼きもちをやくし、意地悪もするし、拗ねもする。人間と同じように、妬み、やっかみが自分の行動を変えてしまう。ところが『トンちゃん』だけは、そうした感情を持ち合わせていないようだ。人の行動を自分の感情という色メガネで見ることをしない。人に無関心なわけではない。人は人、自分は自分、というわけでもない。だれかにくっついていないと眠ることもできない甘えん坊筆頭の『トンちゃん』は、人のすることにも興味津々だ。だが、それをいつでも澄んだ透明な目で見ているのだ。そして自分のしたいことは、自分のしたいように、臆せず、存分にやってのける。『トンちゃん』の行動は、人に対する感情で方向を変えることなく、純粋に自分の『やりたい』『したい』のストレートな表現なのだ。
 『トンちゃん』にはロッキーのように『ふんふん』と全てを抱きかかえ、受け入れてくれる懐の深さはない。だが、人の行動を感情で評価せず、したがって人に対する感情に自分の行動を引きずられることのない『トンちゃん』の無色透明な愛らしさに、『ふんふん教』の奥義に続く道の始まりを見た気がする。ロッキーの2回目の命日には、もう少しまともな『ふんふん』を唱えることができるかもしれない。