大掃除 (H13.12.30)

 平成13年も仕事納めの日を迎えた。最後の仕事を終え、家に辿り着いた体は、今までになく疲れ果て、泥縄のようだった。「お疲れ様でした」と出迎えたおばあちゃんに返す笑顔もこわばっていた。性に合わない仕事をするということはこういうことだ。(今の仕事事情については、改めて書き留めておくとしよう。)妙な風邪をひいていることもあり、何度となく目覚める、浅い、ストレスのゲージが跳ね上がりそうな眠りを眠った。
 ところが明けた翌日、一年の疲れを引きずった体を動かすに余りある気力に満ちていた。大嫌いな大掃除。その大掃除をしたくて、したくて、うずうずしていたのだ。大掃除というより、一大廃棄処理。今の私に不要なモノを全て捨てるんだ!!大切なモノ、私を幸せにしてくれるモノだけを残して、後は全て捨て去り、身軽になりたかった。
 もとよりモノが大好きだった私。気の向くままに、何の脈絡もこだわりもなく買い求めたモノたちは、4DKの家を占領し、人と猫たちの貴重な空間を奪っている。そればかりではない。親戚が見るに見兼ねて提供してくれた家一軒も、モノでうめ尽くされている。その別宅にぎっちり収められているモノは、長年借りていた大きなコンテナから移したモノだ。それでもコンテナから別宅に移し替える際に息子と私の闘いの10年を刻んだピアノを手放している。さらにベッド2台、洋ダンス2竿、和ダンス2竿がだんな様の実家に預けたままだ。
 溢れかえるモノに押しつぶされそうになりながら、改めて考える。本当にモノが好きだったのだろうか。答えはYesでありNoでもある。私はお金を形あるモノに換えるのが好き、という意味ではYes。でも、一つ一つのモノに特別な思い入れがあったのか、という意味ではNo。半ば必要なモノ一一あればいいのにな、という程度に必要なモノ一一があってお店に出かけても、今一度考えようと手ぶらで帰ったのは、4台目のパソコンを買おうとしたした時だけ。そのパソコンも、一週間後に我が家の机の上に陣取ることになった。必要に迫られたモノ一一そのほとんどが電気製品なのだが一一でも、どれにするか選択肢は山程あるはずだ。だが、その一つ一つを比較し、吟味して、という当たり前の習慣がなぜか私にはない。比較の基準がわからないから、比較しようもない。(例外はパソコンで、Macユーザーの私は、指名1点買いをする。)お店の人にアドバイスを求めればいいものを、それすらも面倒がる。だから、名の通ったメーカーの、値段が『中の上』か『上の下』あたりで、『これにしようかな』と漠然と考えているモノを指さして、『これはどうですか?』という聞き方をしてしまう。ものの1分か2分で選んだモノに同意して欲しいだけなのだ。こうして手に入れた『必要な』モノに、『やっと手に入れた』という感慨が湧くはずもない。ところが、必要なモノもなく、欲しいモノもなく、ぶらぶらとお店をはしごする時は、様子が一転する。はしごするお店はブティークか、ステーショナリーショップか、雑貨屋さんか、本屋さんに限られるのだが、これらのお店で扱っている商品に対してはしっかりとした評価基準をもっている。洋服でいうなら、素材の材質、縫製、デザイン、色、機能等々、一つ一つじっくり吟味する。それが実に楽しい。じっくり吟味してみると、お眼鏡にかなうモノはそうそうなさそうなものだが、ところがどっこい、手ぶらで帰ることはまずない。値段に比べてこれはお買得と思われるモノを必ず見つけてしまうのだ。それを買い込む。その『値段』は、その時々の金回りの状況と気分次第でゼロが一つ二つ増えたり減ったりする。『お買得』感覚で手に入れたモノは、一度『これ、いくらだと思う?』と私の買い物上手を自慢したら、お楽しみはそれでおしまい。値札を外したモノたちを愛でることはまずない。だから、またすぐに買い物上手の自慢の種を買い込むことになる。こうしてモノが溢れた。
 この馬鹿げた連鎖に気付かないわけではなかった。でも、ついこの間まで『なんとしてもあれを手に入れたい』というモノがなかった。だから、無駄な買い物連鎖が止まらなかった。溢れるモノを前にして、何とかしなくちゃ、と思いつつも、モノにすり変わったお金の額を考えると捨てきれなかった。大切にとっておきたいモノがなければ、全てをとっておくことになる。でも今年だけは違った。私にとって、何が大切か、何に囲まれていたいのか、ようやく分かったのだ。
 まずはクロゼットの中から。45Pのゴミ袋にバサバサと投げ込む。シルクのスーツ、ブランドモノのドレス、一回しか着ていない一枚仕立てのカシミアのコート、山程あるゴルフウェア…ゴミ袋があっという間に4つ、5つ…。リサイクルショップに持って行けば、お目当ての猫アートを買う資金の足しなるだろうに。でも一刻も早くおさらばしたかった。これまで後生大事に衣装箱に収めていた洋服一一未練たらたらで再び着ることはないと分かっていても防虫剤だけ取り替えてはしまい込んでいた一一も、もういらなかった。おしいとも思わなかった。手許には最低限の仕事着と、洗濯のきくアクリルのセーター一一ジーンズショップのバーゲンで990円でお買い上げ一一とジーンズ、それにUSPPの猫をモチーフにしたウェアと鉄男さんの猫のついたTシャツ、CARAの猫の編み込みセーターが残った。空になったいくつもの衣装箱には、一つ一つ思い入れて集めた猫モノが収まり、たっぷりスペースのできたクロゼットに整然と並べられた。
 次は本を詰め込んだ段ボールに取りかかる。私のキャリアのほとんどは英語関連だった。私には3つの時から英語の家庭教師がついていた。親に敷かれたレールをひた走るのが嫌で脱線したこともあるが、結局、大学の専攻も英語。ビジネス英語やら金融英語やらの教材を作る仕事を10数年。このところ、英語にはとんと縁のない生活をしているが、それでも英語に関する書籍を捨てることはタブーだった。親の気持ちを捨て去るような気もした。何年か前、3000冊程の本を古本屋さんに持っていったことがあった。これは、本の重みで屋根裏が落ちて来るのではと心配になったからだが、このときも英語関連の本は手放さなかった。そしてその後も本は溜まる一方だった。一山、二山、三山…捨てる本がどんどんと積み重ねられた。今回ばかりは英語関連の本も数えきれない程の山を作った。さすがに自分で企画し、執筆し、編集した作品だけは段ボール箱一箱にまとめられ、机の足元に置かれた。私の足跡を捨てることはまだできない。辞書と美術全集も残った。本箱には猫の絵本、童話、物語、エッセーだけが並んだ。
 大掃除には丸々4日を費やした。パンパンに詰まったゴミ袋、十字に縛った本たちは軒下をうめ尽した。ゴミの日に全てを出すことが憚られる量で、取り敢えず半分だけ出し、後は年を越すことになった。
 何かに突き動かされるように朝から晩まで捨て続け、さっぱりした空間を磨き続け、最後にお風呂で体を磨き上げた。履き慣れたスリッパを捨て、猫のスリッパに替えた。シルクサテンのパジャマも捨て、猫が4匹ついたパジャマを着た。9匹+2匹の猫たちと軽やかに年を越す。来年が猫三昧元年なのかもしれない。