日陰の勇士 (H14.12.16 平成12年9月起筆 平成13年12月擱筆)

 7月にロッキー、8月になっちゃんを失い、そして9月、マロンまでが逝こうというのか。
 5年前の9月7日、てっちゃんがたった1年半、その大半を病魔と闘った苦しく短い生涯を閉じたその夜、私はてっちゃんに宛てた手紙を書いた。それは、尊敬のたくさん詰まったラブレターだった。
 ロッキーがたった1年で突然私の手の届かないところに旅立った時、私は物語を書いた。それはなっちゃんの物語でもあった。書いている間に、なっちゃんがロッキーの後を追った。
 マロンが家を出たまま帰らなくなった今、私が書くのは日陰の勇士、マロンに捧げる讃歌…

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 マロンがぼけてきたみたい。絨毯や畳を土と間違えて掘り、ありったけのおしっこをしてしまうの。それじゃあ、お外に出た時、迷子になっちゃうかもしれないわね。迷子札を付けてあげなくちゃね。

 その翌日、また家の中でおしっこをしようとしたマロンを見つけ、ここはお家でしょ、おしっこは外でするのよ、と外に出したのが最後。二度と再びマロンは戻ってこなかった。迷子になったのではない。独りで最期を迎えるために、その最期の場所に行ったのだという確信があった。

 夏の射るような強烈さを失い、穏やかな光りとあたたかさを放つ彼岸のお陽様が、唯一の心の救い。忍び寄る最期を静かに待つ身には、この心地よいぬくもりが何よりの、そしてせめてもの贈り物だろう。

 何という尊厳。何という潔さ。

 マロンを探すことは、尊厳を汚すこと。そう思えた。

 最期を見とれない苦しさ。何という切なさ。

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 14年前、飢えて飢えて必死で家の網戸にへばりついていたマロン。何を食べていたのか、下痢が止まらず、しばらく兎の小屋に同居していたっけ。ファイトと同じ、真っ白い猫。でも先が180度曲がった短い尾っぽのファイトと違って、マロンは真直ぐ30センチ伸びるステキな尾っぽの持ち主だった。
 そんなマロンを、先住者であるファイトは弟分として受け入れることはなかった。ケンカするわけでもなく、威嚇するわけでもなく、ただマロンがそこにいることすら目に入らぬような素振りだった。
 そんなファイトがそうさせたのか、マロンはどこかオドオドとして、ことに男の人を怖がった。ぱぱちゃんや悠ちゃんに出会うと逃げ出し、必ず2mという距離を保っていた。マロンが怖がらなかった唯一の男性はバイオリンの先生とテレビの修理屋さんだけ。
 マロンは、おばあちゃんが大好きだった。いつも枕を分け合って眠った。おばあちゃんがいつまでも起きていると、先に寝室で待っていたマロンがしびれを切らし、階下に下りてきては大声で『もう寝ましょ』コールをした。おばあちゃんは、慌てて二階に上がっていった。マロンが心をゆるしたのはおばあちゃんだけだったのかもしれない。おばあちゃんがいれば、それでよかった。

 14年間、マロンはお天下様のファイトの陰で生きてきた。マロンは幼いころの飢えがトラウマになったのか、ともかく良く食べる。食べて食べて、ときには胃袋に収まりきれない程食べて、入り切らない分は吐き出した。それほど食べることに執着していたマロンも、ファイトの先に食べることはなかった。一緒に食べることもできなかった。ファイトはいつも『黄門様の印篭』みたいな視線を送っては、マロンを牽制していた。マロンはいつも、いつになっても二番でビリだった。

 そんなマロンが一度だけ、ファイトに手を上げたことがあった。
 ファイトはケンカが弱いことを知ってか知らずか、よその猫と鉢合わせしても、大声こそ出すものの、すんでのところでケンカをかわして逃げてくる。それも『金持ち喧嘩せず』といった雰囲気で何事もなかったかのようにゆったりとその場を退散するのだ。
 そのファイトに一匹の猫がケンカを仕掛けた。いつものようにファイトの人一倍大きな声が響く。二匹は一定の距離を保って対峙している。そこにマロンが居合わせた。マロンはファイトの側に回って相手と睨み合うかと思いきや、ファイトの退路に陣取り、もう一匹が猫パンチを繰り出したと同時に、ファイトを挟み打ちする格好でファイトめがけてパンチを見舞った。驚いたファイトは、いつもの高貴な退散振りはどこへやら、ほうほうの態で逃げた。マロンのたった一回の小さくて大きな逆襲は終わった。

 ある日、フローリングの床に鮮血の跡が点々としているのに気づいた。ファイトの体にも、マロンの体にもケガはない。なのに、拭いても拭いても新しい赤い点々ができる。マロンの口の中が切れているのが分かるまでに2、3日経ってしまっただろうか。御飯を食べる姿を眺めていた時のこと、口を開けた途端に真っ赤な血が細い霧状になって吹き出したのだ。大変だ!ラブリー先生のもとに急いだ。
 口の中の細い動脈が切れていた。ケンカでもして大きな口を開けたときに、相手の爪で引っ掻かれたのだろうという。何せ口の中のこと、止血も容易ではない。すでにかなりの量の血を失っていたマロンの耳にいつものピンク色はない。透けるように白い。鼻の先も真っ白だ。そうこうする内に、腰がへなへなとなり、大きな体が診察台に崩折れた。輸血をしなければならない。一刻を争う。
 家に取って返し、ファイトを連れてラブリー先生への道を急ぐ。猫は一回目の輸血に限り血液の不適合は問題ないという。突然車に乗せられ、いつものように大声で泣くファイトに『マロンに血をあげてね。マロンを助けてね』と繰り返す。意識朦朧としたマロンと訳の分からぬファイトを先生にお預けして、なぜもっと早く気づかなかったと自分を責めながら、言葉なく家路についた。
 ファイトの血はマロンの体を蘇らせた。もとより病気だったわけではない。裂け目を焼いて止血された動脈は、ファイトの血をマロンの体のすみずみにまで運んだ。耳にも鼻にもピンク色が戻った。期せずしてファイトはマロンの命の恩人となった。

 ファイトの血が入っても、マロンはマロンのままだった。二番でビリの生活が続いた。そんなある日、Neco家にソクラテスがやってきた。おばあちゃんの手のひらに初めて乗せられた時のどぶから這い出した瀕死の子ネズミのようだったソクラテスは、黒トラの愛らしい子猫に成長した。『ねえ、遊んで、お兄ちゃん』──グルグルッと喉を鳴らして擦り寄るソクラテスに、ファイトは歯を剥き出し、『ハーッ』と答えた。マロンは二歩、三歩後ずさりした。『ねえ、遊んで、お兄ちゃん』──ファイトの機嫌が良さそうな時を見計らって、ソクラテスはグルグルッと喉を鳴らし続けた。ファイトの答えは、変わらなかった。マロンは後ずさりを止めた。ソクラテスはマロンというお兄ちゃんを得た。
 それでもファイトのお天下様に変わりはなかった。ソクラテスはその名の通り賢い猫で、周囲の状況、相手の胸の内を見て取ることができた。ファイトの先を越して食べることなどなかった。ファイトがそばにいないことを確認して、食べ始める。ところが、一体どこで見ていたのか、ファイトは食事を楽しむソクラテスに音も無く近寄り、頭をお皿に滑り込ませる。ソクラテスはすごすご立ち去るしかない。ソクラテスがいなくなると同時にファイトもまた姿を消した。食いしん坊なマロンだが、ご飯を食べているソクラテスをどかすようなことはなかった。マロンにとって、二番も三番もビリも同じだったのかも知れない。

 Neco家は十数年住み慣れた家を引っ越すことになった。ファイトもマロンも新しい家にすぐに慣れた。しかし、新参者がいるらしいと嗅ぎ分けたのか、近所にいる強面の古株猫がNeco家の偵察に定期的にやってくるようになった。ファイトは家の中にいれば、強気でガラス越しに叫び続け、外で鉢合わせするとお決まりの大声を発しては早々に引き上げてきた。マロンはと言えば、耳の先が裂けた。目を左右交替交替に腫らした。歯が折れた。一本、二本、三本…。それでも、敵に背中を見せることはなかった。マロンはケンカに勝ったことはなかったろう。だが、決して負けなかった。いつしか古株猫は姿を見せなくなった。

 二年後、Neco家はまた引っ越しをした。ここにも古株猫はいた。しかし、マロンの闘いの時は終わったようだった。全ての闘争心を使い果たしたかのように、穏やかなマロンがそこにいた。闘いに耐えた歯も歯槽のう漏のために抜け落ちた。大好きだったお刺身が上手く食べられなくなった。毎日をのんびり過ごす体は筋肉の周りに脂肪を貯えた。
 なっちゃんを皮きりに、ロッキー、その6匹の兄妹、ロッキーママと急に8匹を家族に迎えても、マロンはマロンのままだった。子猫の戯れを眺め、歯のない口で食事を楽しみ、大好きなおばあちゃんの膝で眠った。二つに裂けた耳が、かろうじてマロンの闘いの時を思い起こさせたが、それも今の好々爺のような姿を見ると遠い遠い昔のことのように思われた。
 子猫たちと一緒に並んでカニカマをもらう順番を待つ日々が続いた。そして、たった二回のそそうを合図に、去っていった。去ったその日に、二度と再び戻ることはないだろうと思った。

 マロンが去った翌々日だったろうか、ファイトが家に帰らなかった。ロッキーとなっちゃんを立て続けに事故で失い、マロンが去り、いやが上でも死に敏感になった身には堪え難かった。次の日もファイトは帰らなかった。その次の日も…。
 『ファイト、そしてマロン』と題して、そのやりきれなさを綴り始めた日だった。ファイトが家の前の道路をよろよろ渡ってくるのに出逢った。驚かせないよう、はやる気持を抑えながら静かに近寄り抱き上げると、端正な顔が見る陰もなく晴れ上がり、血まみれで、膿みが吹き出している。大声こそ出すが、一度たりともまともにケンカなどしたことのないファイトが…。瞬時に悟った。たった一度、やられてもやれれてもファイトが近寄っていった相手はマロンなのだと。
 ファイトはマロンの最期の場所を見つけたのだろう。ファイトに踏み込まれ、マロンは最期の力で14年を共有したファイトを追い払ったのだ。ファイトにもマロンの強烈なメッセージの意味は正確に伝わっていたに違いない。しかしなぜか容易にマロンの側を離れはしなかった。自分の身のギリギリのところまで、マロンと最初で最後の闘いを闘ったのだ。そして、勝ちもせず、負けもせず、独りで戻るしかなかった。

 Neco家にはソクラテス、ロッキー、なっちゃんの写真を入れた額が3つ並んでいる。その横にマロンの額はない。マロンは去っていっただけなのだから。あれから一年半が経とうとしている。冬のぴんとした寒気に寒くはないかとマロンを気遣いながら、一番明るく輝く星を探しては、『ただいま』と声をかける。